2019.08.26

バスケ未経験の若手教師が顧問5年目で全国優勝するまで。第1話

今から約30年前の平成元年。茨城県の中学校で「廃部寸前」といわれた弱小男子バスケ部を全国初優勝に導いた若手教師がいた。その名は稲葉一行。バスケはルールさえ知らなかったド素人。彼はその後も輝かしい成績を残すとともに,現在の日本バスケ界を支える人材も多数輩出している。知る人ぞ知るレジェンドだが,彼はどんなに請われてもバスケについては語ってこなかった。なぜなら「私の仕事はバスケではなく教師だから」。そんな稲葉が,若い教師のためになるならと,伝説の指導について,令和の時代に初めて口を開く!

第1話 プロローグ 残り4秒の攻防

 ピィィィッというホイッスルの鋭い音が,体育館内に充満した観客の熱気と声援を切り裂いた。コートにいた筑波西中の選手たちが,ドドドッと大きな体を揺らしながら,自陣のベンチの前に駆け寄る。
 試合終了まで,残り約4秒。これが最後のタイムアウト。
 1989(平成元)年8月23日。第19回全国中学校バスケットボール大会男子決勝。試合はまさに大詰めを迎えていた。
 対戦カードは,関東大会2位の茨城・筑波西中と,東海大会1位の愛知・城北中。前評判では城北中がやや優勢。だが蓋を開けてみれば,試合終了間際の時点で両校の得点は49 対43。筑波西中が6点のリードを奪っていた。
 勝てる。
 筑波西中バスケ部コーチ・稲葉一行は,ベンチに集まった選手の顔をぐるりと見回した。皆,額から玉のような汗を噴き出しながら,稲葉が口を開くのをじっと待っている。
 あと4秒耐えれば,全国優勝に手が届く。思わず気持ちがはやった。だが同時に,稲葉の脳裏には,2週間前の関東大会決勝で犯した手痛い失敗が浮かんでいた。
 相手は東京代表の南砂中。試合は60 対59の1点差で,筑波西中がリードしていた。残り時間は約3秒。その時点でボールはまだ相手側のコートにあった。
 勝った。
 稲葉は確信した。もうパスをつないでも間に合わない。
 そう思った瞬間,相手チームの選手がふわりとボールを上空に放った。破れかぶれの超ロングシュート。誰もが「まさか」と思いながら見上げたボールは,2秒後,試合終了のホイッスルと同時に自陣のゴールネットを揺らした。ゲームスコアは60 対62。筑波西中は敗れた。
「ここからが本当の勝負だ」
 稲葉は自身に言い聞かせるように,言った。まだ残り4秒ある。土壇場で,最後の試合で同じ失敗を繰り返すことは許されない。最後の0秒になるまで,試合結果はわからないのだ。
 試合再開まで,残り40秒。
 稲葉は,静かな口調で選手に語り始めた――。

 これは,「廃部寸前」といわれた茨城の弱小男子バスケ部を,わずか5年で全国大会決勝まで導いた,ひとりの熱き中学校教師の記録である。

ついにバスケ部の 救世主がやってきた!

「集合ォッ!」
 体育館に現れた男の姿を見るや,キャプテンのY は部員に号令をかけた。「1on1(ワンオーワン)」の練習の手を止め,男子部員たちがタッタッタッと男の周りに集まる。
 全員が床に体育座りをすると,男は「新しくこの学校に来た,稲葉です」と会釈をした。
 1985(昭和60)年の春。筑波西中が全国大会決勝戦に出場する,4年半前のことだ。
 目の前に立つ稲葉を見上げながら,「今度はいい感じだ」とY は思った。当時の稲葉の年齢は30歳。身長は175㎝と高く,体型も余分な脂肪がなく引き締まっていた。Yは,これは明らかにスポーツ経験者,それもバスケットボール経験者の体格だと感じたのだ。
 今度の先生は,自分たちを強くしてくれるかもしれない。
 否が応でも高まる期待。Y がそう思うのには理由があった。
 筑波西中に入学した2年前。大好きなバスケを教えてもらえると,Yは夢を抱いて男子バスケ部の門を叩いた。だが期待はあっさりと裏切られる。当時顧問だった教師は,バスケのルールさえろくに知らない素人だった。さらに1年後。新しく顧問になった教師は,野球に夢中で,バスケにほとんど関心を示さなかった。
 Y は悔しかった。なぜ自分たちに真剣に向き合ってくれないのだろうと疑問に思った。“お遊びサークル”と言われても仕方がないほど,実力が不足していることは自覚している。それでも真剣に練習して,少しでも強くなりたかった。
 それとも素質がなければ,強くなりたいと思ってはいけないのだろうか……?
 新しく顧問としてやってきた稲葉を見ながら,Y は「これが最後のチャンスだ」と思った。今年度,自分は新3年生になる。引退までに試合に出られる期間は,長くても残り半年ほどしかない。だが,バスケ経験者の稲葉が指導してくれれば,その間にわずかでも強くなれるのではないか。そう期待したのだ。

もしも本音を言えたなら

 Yたちバスケ部員から注がれる期待の眼差しは,稲葉もひしひしとその身に感じていた。
 だから,「余計にまずいな」と思った。
「えー,今年度からおれが男子バスケ部の顧問になります。今日から皆と一緒に頑張っていきたいと思う」
「はい! よろしくお願いします!」
「それで……,おれは正直,バスケをやったことのない素人なんだけれども……」
 言った瞬間,部員たちの目からさっと光が消えるのが分かった。するすると笑顔がしぼみ,まるで夏の終わりのヒマワリのように一斉に頭が下を向いていく。
「なんだよぉ……」
 ついさっきまで期待で輝いていたYの視線は,深いため息とともに冷たい床にぽとりと落ちた。
 まあ,こうなるよな……。
 図らずも部員の期待を裏切ってしまったことで,稲葉は申し訳ない気持ちになった。
 だが,ショックは受けなかった。本音を言うことなど絶対にできない。しかし,もし言葉を続けられるのであれば,本当はこう言いたかった。
 「ごめんな,おれ,本当はバスケなんて大嫌いなんだよ」

おれ,もしかして嫌われてます……?

 不満だらけの,いや,不満しかないスタートだった。
 稲葉が,茨城県にある筑波町立(当時)筑波西中学校に赴任したのは1985(昭和60)年の4月1日。それまでは同じ茨城県内で小学校教員として働いていた。西中は筑波山近くの純農村地帯にあった。当時の全校生徒数は350 名。つくば市内では下から2番目の小規模校だった。
 同じつくば市内で生まれ育った稲葉だが,元々は西中の隣にある母校の筑波東中学校に赴任する予定だった。ところが赴任直前になり,茨城県教育委員会から「西中へ行け」との辞令が下ったのだ。
 80年代後半は,全国的に中高生の「校内暴力」が社会問題になっていた時代だ。西中もその例外ではなく,当時は生徒がニッカポッカを履いて登校したり,校庭でバイクを乗り回すなどしたりして荒れていたという。
 そこで西中の風紀を立て直すために,急遽5人の男性教員が招集された。男性教員ばかりを集めたのは,生徒からの暴力行為を抑止するためだけではない。部活動を強化し,勝つことの喜びや達成感を味わわせることで,生徒に自信を身に付けさせたいという狙いもあった。目指せ,リアル「スクール☆ウォーズ」というわけだ。
 こうした事情から,ちょうど小学校から中学校への異動を希望していて,さらに小学校の水泳部を県西部大会優勝まで導いた実績のある稲葉に,白羽の矢が立ったのである。
 念願の中学校への異動は素直に嬉しかった。だが同時に,稲葉は釈然としない思いも抱えていた。
 それは思い入れの深い母校に赴任できなかったこともある。しかしそれ以上に,新しく赴任した5人のうち,自分だけが担任を持てなかったことに納得がいかなかったのだ。
 前歴は小学校教員といえども,すでに6年以上のキャリアはある。去年は6年生の担任となり,教え子を中学にも送り出した。実力的には中学1年の担任を受け持つことだって充分できるはずだ。それなのになぜ,自分だけが中学3年の“副担任”なのか……?
 心の奥底から,とめどなく湧き上がる疑念や不満。
 その怒りは,教頭の“トドメの一言”によって赴任早々,爆発することになる。

頼まれても絶対やりませんから!

 登校初日。
「稲葉先生は,今日から男子バスケ部の顧問をやってください」
 職員室で教頭からそう言われた瞬間,稲葉は自分の耳を疑った。
「全然話が違うじゃないですか!」
 西中に赴任する数週間前。面談の席で,稲葉は校長と教頭から「部活動は何をやりたいか?」と尋ねられた。そこで「野球かバレーボールであれば,指導経験があるので教えられます」と答えていたのだ。
 元々,野球の腕には自信があった。中学のときは4番でピッチャー。高校では本気で甲子園出場を目指して練習に打ち込んでいた。
 途中で肩を壊し,結局夢は叶わなかったが,大学卒業後も社会人クラブに入りプレーは続けている。だから顧問になるなら野球部が一番適任だし,他の教師よりも上手に教えられるという自負もあったのだ。
 だが後に知ったことだが,どうやらバスケ部の前任者が「自分が野球部をみたいから担当を変えてくれ」と教頭に直訴したらしい。さらに男子・女子バレー部も,稲葉と同時に赴任してきた他の教員が担当することになり,結局,誰も教えることのできない男子バスケ部の顧問を稲葉に任せようという話で決まったようだった。
「そんな話,聞いてませんよ!」
 稲葉は教頭に食ってかかった。冗談じゃない。おれだってバスケを教えたことなどない。第一,これっぽっちもバスケなんて好きじゃないのだ。
 だが,教頭の返事はつれないものだった。
「まあ,そう言わず……。とにかく,やってみてくれませんか?」
 カッと顔が熱くなるのが分かった。
 そして次の瞬間,稲葉は自分でも思わぬことを叫んでいた。
「分かりました,私がバスケ部を教えます。その代わり,今後,野球部やバレー部をみてくれと言われても,絶対にやりませんから!」

Look back ~振り返って見えること~

 筑波西中に赴任した当初,私は「なぜ自分を正当に評価してくれないんだ!」と憤りを感じていました。同じ年に赴任した5人の教員のうち,小学校から異動してきたのは私一人だけ。自分だけが担任を任されなかったり,教えたこともない男子バスケ部の顧問をやらされたりするのは差別じゃないかと,学校に対し不信感を抱いていました。
 しかしその後,他の先生方と夕食に出掛けた際に,「あえて稲葉を中学3年の副担にしたのは,最初の1年間で一番大切な進路指導や生徒指導を覚えて,いち早く戦力になってもらいたいという校長の思いがあったからだ」ということを聞かされました。また,男子バスケ部の顧問に任命したのも,「他の先生方と比べてスポーツ経験が豊富な私が,一番適任だと考えたからだ」とも仰っていたそうです。
 真偽のほどは定かではありませんが,そうした意図を汲み取るキャパシティが当時の私には足りなかったことも確かです。
 しかし,校長として学校経営も経験した今,自分が苦手なこと,自信のないことにこそ挑戦する大切さを噛みしめています。副担任やバスケ部の顧問をしたことで,結果的に私は教師として大きく成長することができました。そんな成長ができたのは,何も知らない最初のうちに,たくさんの失敗ができたからです。
 教師といえども,最初から全て完璧にできるわけではありません。むしろ“できなくて当たり前”のうちに,たくさん失敗して経験を積むことが,その後に歩む道の選択肢を豊かにしていくと感じています。

次号に続く

稲葉一行

1985年筑波西中学校に社会科教諭として着任,バスケ部を指導。その後,つくば市教育委員会事務局や県内小中学校勤務を経て,2015年つくば市の学校教育審議監として退職。
現在,一般財団法人21世紀教育会常務理事,茨城県生涯学習審議委員・社会教育委員。