2020.03.05

バスケ未経験の若手教師が顧問5年目で全国優勝するまで。第2話

今から約30年前の平成元年。茨城県の中学校で「廃部寸前」といわれた弱小男子バスケ部を全国初優勝に導いた若手教師がいた。その名は稲葉一行。バスケはルールさえ知らなかったド素人。彼はその後も輝かしい成績を残すとともに,現在の日本バスケ界を支える人材も多数輩出している。知る人ぞ知るレジェンドだが,彼はどんなに請われてもバスケについては語ってこなかった。なぜなら「私の仕事はバスケではなく教師だから」。そんな稲葉が,若い教師のためになるならと,伝説の指導について,令和の時代に初めて口を開く!

第2話 昼下がりの体育館で起きた「怪奇」現象

 やっちまった……。
 中学校に異動して初めての授業が終わった放課後。稲葉は,数日前に発した自分の言葉を半ば呪いながら,とぼとぼと体育館へと続く廊下を歩いていた。
 好きでもないバスケ部の顧問をやれと,いきなり教頭から命令され,思わず「話が違う!」と言い返した。それは間違っていないと思う。問題は,その後だ。
 なぜ,男子バスケ部の顧問をやる代わりに,ほかの部活は今後一切見ないなんて言ってしまったのか……。
 できることなら今すぐ「おれ,野球がしたいです……」と言い直したかった。だが一度啖呵を切ってしまったからには,後戻りはできない。それに自分は,間違ったことはしていないのだから。
 そう何度も言い聞かせ,思わず踵を返して職員室に戻りたくなる気持ちをぐっと堪えながら,稲葉は男子バスケ部員たちが待つ体育館の入り口をくぐった。
「集合ォ!」
 体育館に入ると,キャプテンのYの号令で部員たちが稲葉の元に集まってきた。
「おお」
 だが,何も言うことがない。
「まあ……しっかりやってくれよ」
「はい!」
「けが,しないようにな?」
「……はい!」
 それから練習の「見学」が始まった。部員たちがシュートやドリブルの練習をしているのを,稲葉はただ見ているだけ。顧問というより,これでは観客だ。だが,バスケに関しては部員たちよりも自分のほうがズブの素人。当時の稲葉は,何をどう教えればいいのか,さっぱり分からなかった。
 これはいくらなんでも,まずいよな……。
 棒立ちで部員たちの練習を見学しながら,稲葉はぼんやりと今後の指導プランを考えていた。さすがに一年中,見学だけしているわけにはいかない。それは自分も嫌だし,何より生徒のためにもならない。だが,ろくにルールも知らない自分が,教えられることなどあるのだろうか……?
 ふと,名案が浮かんだ。
 自分が無理なら,別の先生に教えてもらえばいいのだ……!
 翌日,稲葉は男子バスケ部の元顧問の教員に話を聞きにいった。
「この地域で,いちばんバスケが強い中学はどこですか?」
 前任者に助けを求めたのではない。元々,前任の教師もやる気がなくてバスケ部の顧問を降りたのだ。そうではなく,地元の強豪校と練習試合をして交流を深め,そこのチームの指導法や練習方法を参考にすればいい。そう稲葉は考えたのだった。
「それならやっぱり豊里中でしょうね」
 前任の教師は,さも当然といった口ぶりで稲葉の質問に答えた。
 聞けば,筑波西中から7~8㎞離れた場所にある豊里中は,過去に県大会で優勝し,関東大会の出場経験もある屈指の強豪校だと言うではないか。
 そんな名門校に学ばない手はない!
 稲葉は早速,前任の教師に電話をつないでもらい,豊里中に練習試合を申し込んだ。
 電話口に出たのは,当時,豊里中のバスケ部で顧問をしていた石川だった。稲葉の突然の申し出に,石川は快く応えた。
 「もちろんです。いつでも来てください」

早くボールを投げろ!

 1か月後。
 ゴールデンウィーク明けの土曜日の午後,筑波西中と豊里中の練習試合は行われた。
 戦略は,なし。そもそも勝つことなど,稲葉は全く期待していなかった。
 当時の筑波西中男子バスケ部は,小さな中学校の弱小チーム。体格のいい生徒は,ほとんどが男子バレーボール部に入っていたため,他校のチームと比べて背も低く,運動能力も劣っていた。さらに毎年のように部の顧問も変わっていたことから,チームとしての戦術や連携プレーも全く積み上げられていなかったのだ。
 試合に参加する筑波西中メンバーは,3年生が4人,2年生が7人,そして今年の5月から入ってきた新1年生が7人の,計18人。試合時間は15分で,これを3試合やる。
 稲葉は3年生を中心に出場メンバーを5名選び,「胸を貸してもらえ」とコートに送り出した。いくら負けても構わない。今は,試合することに意義があるのだから……。
 ところが,である。稲葉の予想に反し,両チームの点差は中々開かなかった。
 結局,2試合を終えた時点で,筑波西中は2連敗。しかし両チームの得点差は,わずか15点ほど。手も足も出ないほど悲惨なレベルではなく,むしろ善戦したといえる。
 なんだよ,いけるじゃん……!
 予想を裏切る結果に,稲葉は思わず胸が熱くなった。もしかしたらこの子たちは,今まで指導者に恵まれなかっただけで,本当はバスケの才能があるのかもしれない。
 そう思うと,急に部員たちの顔つきも頼もしく見えてきて,稲葉は彼らの肩を叩いて健闘を讃えた。
 するとそこへ,豊里中の石川がやってきて,稲葉にそっと微笑んだ。
「じゃあ稲葉さん,そろそろ本番をやりましょうか」
「本番…? 今の本番じゃないんですか?」
 その答えはすぐにわかった。
 3試合目,豊里中のメンバーが全員入れ替わっていたからだ。
 実は,前半の2試合に出場したメンバーは,入学したばかりの新1年生を中心とした2軍ですらないチームだった。筑波西中のメンバーは,善戦どころか,この間まで小学生だった子どもたちに負けていたのだ。
 その後の試合は,まさに一方的だった。
 得点が入らない,というレベルではない。相手側のゴールに全く近寄れず,ボールすら触らせてもらえない時間が延々と続いた。
 稲葉の目の前では,ちょっとした怪奇現象が繰り広げられていた。通常,バスケのルールでは,相手チームにシュートを入れられたら,プレイヤーが自陣のゴール下にあるライン(エンドライン)の外側から,コートの中にいるチームメイトにボールをパスすることで,試合が再開される。
 ところが筑波西中の生徒は,いつまでたってもコートの中にボールを投げないのだ。稲葉は,なぜパスしないのか不思議で仕方がなかった。プレイヤーがボールを持ってから5秒以内に中に入れなければ,ペナルティをとられて相手ボールになってしまう。
 しびれを切らした稲葉は,叫んだ。
「おい,早くボールを投げろ!」
「できません!」
「いや,味方にパスするだけだろ!」
「無理です!」
 もう,わけがわからない。
 後々になってわかったことだが,このとき筑波西中のメンバーは,豊里中の苛烈なマンツーマン・プレスによって徹底的にパスコースをシャットアウトされていた。そのためコートの外にいたプレイヤーは,パスを出せる相手が見つからず立ち往生してしまったのだ。
 実はマンツーマン・プレスは,連携プレーで簡単に外すことができる。しかし当時はそんな戦術など知るわけもなく,稲葉はただ試合を眺めることしかできなかった。
 そして果てしなく長い15分間が終わった。
 結果は「72-2」の記録的大敗。
 悔しさはなかった。何が原因で負けたのか,それすらもわからなかったからだ。
 このとき稲葉はようやく「これは強豪校の練習を参考にするというレベルではない」ということに気づいた。
 テクニック以前に,まずは自分がバスケの基本ルールから学ばなければどうしようもない。そのことを痛感したのだ。

1年に及ぶトンネル生活の果てに

 豊里中との試合で圧倒的敗北を喫した後,稲葉は自分なりにバスケの研究を始めた。負けた理由が知りたかった。
 まずはルールを覚えなければ話にならない。そこで稲葉は,バスケのルールブックや参考書を買い漁り,授業の合間に少しずつ読み進めた。
 参考書を読む中で,意外な発見もあった。それは,バスケが数あるスポーツの中でも特に高度な戦略性を要するということだ。
 例えば野球であれば,ピッチャーがずばぬけて優秀であれば,相手を完封することもできてしまう。ところがバスケットボールは,いかに優れたプレイヤーがいても,個人の力だけで組織に対抗することは難しい。逆に言えば,技術面で負けていても,戦略がうまく機能すれば実力が上のチームに勝つことも珍しくない。それぐらいメンバー間の密な連携プレーと指導者の力量が問われるスポーツでもあるのだ。
 こうした研究を通じて,稲葉は少しずつバスケの面白さを発見していった。
 だがそれでも,試合には一向に勝てなかった。本を読み,ルールや戦略は覚えることができた。しかし「なぜそのように動かなければならないのか」という理屈を部員たちに教えることができなかったのだ。
 結論から言えば,豊里中に負けてからの約1年間,筑波西中は弱小校との練習試合ですら1回も勝つことができなかった。
 真っ暗なトンネルを進むような時間を過ごす中で,稲葉の胸中にはさまざまな感情が去来した。稲葉を最も苦しめたもの,それは罪悪感だった。生徒を一度も勝たせてやれないままでいいのか。何一ついい思いをさせてやれないままでいいのか。それは稲葉にとって,教師としての自信さえも揺るがす重大な問題だった。
 一方で,心のどこかには「おれがやらなくてもいいんじゃないか」という諦めの気持ちもあった。元々好きでバスケ部の顧問になったわけじゃない。そううそぶき,勝てない自分を正当化したい気持ちもあった。
 そして指導者として何もできない無力感と,いつまでも勝てない歯がゆさが混ざり合い,やがて稲葉の中にある大きな感情の渦を巻き起こした。それは怒りだった。
 長く続いた逆境の日々が,稲葉の持ち前の負けず嫌いの性格に火を灯したのだ。
 やっぱりバスケは嫌いだ。それでも生徒たちは絶対に勝たせてみせる……!
 その怒りは,やがて巨大なエネルギーとなり,物語を大きく前進させることになる。

Look back ~振り返って見えること~

 恥ずかしながら最初の1年間は,バスケの基本も何にも知らない教師が,ただ子どもに付き添っていただけの名ばかり顧問でした。指導の仕方も「もう少し頑張って走れ」とか「もっと粘り強く守れ」といった精神論が多かったように思います。
 バスケの素人でも,顧問である限りは教えないといけない。そうした重圧に,焦りや戸惑いを感じていた部分もあります。
 これは後になって気付いたことですが,ダメな指導者というのは「ミスしたこと」を怒っているんですね。例えば試合中に,「なぜあそこで走らなかったんだ」とか「ボールを回さなかった」など,現象面だけを見て怒る。しかしそれは,あくまで一場面であって,本当の問題は「なぜ適切な行動を部員がとれなかったのか」という原因のほうにあります。
 それを解消するためには,足の開き方や体重移動の方法,マークマンの動きを把握する視線など,日頃から具体的なことを丁寧に教えていなければなりません。それを教えずに怒るのは,本末転倒です。
 私自身も最初はそれがわからず,ドリブルやフリースロー,フットワークなど,体育の教科書に出てくるような練習ばかり繰り返していました。その割に,そうした練習が何の役にたつのかも理解できていなかった。これでは部員たちも不安になり,素直についてこられないのは当然です。
 そうした価値観を崩してくれたのは,部員たちと一緒に取り組んだ練習でした。1対1をしてみて,初めて本に書かれた言葉の意味が実感できた。知識を学ぶのと同時に実体験することの大切さを感じます。

稲葉一行

1985年筑波西中学校に社会科教諭として着任,バスケ部を指導。その後,つくば市教育委員会事務局や県内小中学校勤務を経て,2015年つくば市の学校教育審議監として退職。
現在,一般財団法人21世紀教育会常務理事,茨城県生涯学習審議委員・社会教育委員。