2018.11.01

目からウロコの教育史 第3回・ロック「健全な身体に宿る健全な精神」

教育史に出てくる「名言」って一体何を意味しているの?
単に暗記するのではなく、マンガ&テキストでその「根っこ」を理解する「目からウロコ」のコーナーです。

これさえあれば問題ない

今回取り上げる言葉は、それだけで一般にも通用する言い回しです。これは、ロックの『教育に関する一考察』という本の冒頭の一節ですが、ロックが新たに生み出したわけではなく、古代ローマの風刺作家ユウェナリスの言葉を引いたものです。
正確には、「健全な身体に宿る健全な精神とは、この世における幸福の状態の、手短かではありますが意をつくした表現です」と書いてあります。「この世における幸福」について「意をつくした表現」というのですから、この状態を手に入れれば幸福は実現するということでもあります。

紳士のための教育と一般の庶民の教育

ロックには教育に関する著作が2つあります。1つは前出の『教育に関する一考察』で、もう1つは交易殖民委員会の委員として提案した『労働学校案』です。前者は当時の市民階級であるジェントリーの教育、つまりは紳士教育についての本で、後者は労働者階級についてのものです。
『教育に関する一考察』は、エドワード・クラーク(友人の下院議員)に差し出した書簡をまとめたものであることが、同書の謝辞として示されています。つまり、私的な書簡を公にすることに一定の意義がある、すなわち教育論として成立すると考えたということです。

経験なくして認識はできない

『教育に関する一考察』の最後の方では、この本のきっかけとなった貴族の息子を、「ただ白紙、あるいは好きなように型に入れ、形の与えられる蜜蝋」だと考えたとも述べられています。ロックは、人は生まれた当初は白紙のような存在であり、経験により観念が書き込まれていくという「タブラ・ラサ(tabula rasa)」(白紙説)を提唱します。ちなみに、tabulaとは板、rasaは滑らかなという意味のラテン語です。まっさらな板というのが原義です。
白紙説は、『教育に関する一考察』よりも前に、ロックが出版した『人間知性論』(『人間悟性論』とも訳される)の中で、以下のように展開されています。
「心は、言ってみれば文字をまったく欠いた白紙で、観念はすこしもないと想定しよう。どのようにして心は観念を備えるようになるか。……これに対して、私は一語で経験からと答える。この経験に私たちのいっさいの知識は根底をもち、この経験からいっさいの知識は究極的に由来する」
白紙説には、デカルトらに端を発する「大陸合理論」への懐疑があります。経験や偶然的なものを軽視し、理性というものに全幅の信頼を置く大陸合理論に対して、ロックはなぜ人間は真理を認識できるのかという問いを立てます。
そのような認識能力は生まれつき備わっている(「生得観念」として持っている)と考えることも可能ですが、ロックは経験によって形成されていくと考えました。外界から得る感覚とそれに基づく内省によって、すなわち経験によって、観念は蓄えられていくと考えたのです。

「白紙」を美しく彩るには

人間の心が「白紙」ならば、そこに書き込まれるものはさまざまです。美しいものが書き込まれればよいですが、そうでないこともあるでしょう。もちろん、美しいものが書き込まれるようにすることが求められることになります。
『教育に関する一考察』における知識の習得に関する叙述は、分量にして全体の4分の1程度しかありません。いたずらに早く知識を詰め込ませることは望ましくないという趣旨のことがたびたび警告されます。
知識よりも重要なのは、良い習慣の形成だとロックは説きます。しかし、まずは習慣を形成する当人の体が丈夫でなければいけません。臨床医としての経験もあったロックは、身体教育の重要性も説きます。「健全な身体」です。
そのような「健全な身体」を持った人が良い経験を積むことで、「健全な精神」を宿すことができるのです。ロックの言葉は、知識よりも知識を受け入れる体制を自らのものにすることが大切と説いたものなのです。

著・監修/吉野 剛弘(埼玉学園大学 准教授)

慶應義塾大学大学院社会学研究科教育学選考後期博士課程修了。日本教育学会、教育史学会所属。