2018.11.22

目からウロコの教育史 第4回・ルソー「自然に還れ」

教育史に出てくる「名言」って一体何を意味しているの?
単に暗記するのではなく、マンガ&テキストでその「根っこ」を理解する「目からウロコ」のコーナーです。

実はルソーは言っていない

 ルソーは、12月号で取り上げたロックと同様に、啓蒙思想家として有名な人物です。「自然に還れ」という言葉は大変有名で、ルソーの思想を象徴する言葉と言うことができますが、ルソーの著作をどんなに探してもこの表現は出てきません。
 後世に誰かが言い出して、それがあたかも本人が言ったかのように流布しているという例です。このようなことは意外とよくあります。

何もしないのがいいこと?

 ルソーが書いた教育小説である『エミール』の冒頭は、「造物主の手を離れるときには、すべてが善いものであるが、人間の手にわたると、それらが例外なく悪いものになっていく」という一節から始まります。生まれたときは「善い」状態であるのに、社会の中で生きていくにつれて「悪く」なるというわけです。
 ルソーが言論界で注目を集める契機となったのは、1749年に懸賞論文として書かれ、金賞受賞後に公刊された『学問芸術論』というものです。「学問と芸術の再興は、習俗を純化することに寄与したか、それとも腐敗させることに寄与したか」というテーマに対し、ルソーは「我々の学問と芸術が完成に近づくにつれて、我々の魂は腐敗したのです」と主張します。
 この論文は大いに議論を呼び、ルソーはさらに「人間不平等起源論」という論文を書きます(後に刊行されます)。ここでも自然状態にあった人間は不平等ではなかったと述べています。ちなみに、この問題意識は、『社会契約論』へとつながっていきます。
 生まれたときが最も善い状態で、人々が築き上げてきた文化・文明は不平等などの悪を生み出すというのであれば、何もしないのがよいことのようにも思えます。ルソーの考える「自然」とは
 自然状態がよいといっても、単に原始時代に回帰すればよいという意味ではありません。ルソーの考える「自然」とは、人間社会にはびこる悪徳に染まっていない状態です。その悪徳を体現したものが学問だったり芸術だったりするわけです。
 この考えに基づいて教育を考えると、子どもが生まれながらに持っている「自然」を尊重し、人を悪徳に染めてしまう要素を排除する教育が望ましいということになります。ルソーの教育論が「自然主義的教育」と呼ばれるゆえんです。ここで注意すべきなのは、悪徳に染めないことが重要なのであって、決して何もしないわけではないです。
 子どもの「自然」に則したとき、そこには一定の段階が生じます。それぞれの時期にどのように子どもに接するべきなのかは、当然のごとく異なります。現代風に言えば、発達段階に即した対応があるということになりますが、そのようなこともあり、ルソーの教育論は「子どもの発見」の系譜に位置付けられます。

「自然」を生かす教育のあり方

 『エミール』では、家庭教師であるジャン=ジャックがエミールに知識や技能を一方的に注入する場面は、ほとんど見受けられません。ルソーの教育が「消極教育」と呼ばれるのはこのためです。
 しかし、繰り返しになりますが、「余計な」ことをしないのであって、何もしないということではありません。『エミール』に描かれるさまざまな教育実践は、エミールがそうならざるを得ないように、家庭教師のジャン=ジャックが環境設定をしている側面があることは否めません。太陽の動きを知ることの重要性を理解させるために森への散歩でわざと道に迷わせたり、磁石の性質を理解させるために人前で失敗させて恥をかかせた上で成功を目指して実験させたりと、さまざまな仕掛けが施されます。
 もちろんそれらの実践は、エミールの気質や性格などを考慮した上でのことですが(もっとも『エミール』は小説なので、すべてが予定調和なのですが)、いわばエミールの外堀を埋めるように仕組んでいるともいえます。その意味で、たしかにジャン=ジャックは教え込まない教師ではあるのですが、このような実践をして「消極教育」と呼ぶべきか否かは議論の分かれるところです。

著・監修/吉野 剛弘(埼玉学園大学 准教授)

慶應義塾大学大学院社会学研究科教育学選考後期博士課程修了。日本教育学会、教育史学会所属。