2019.02.01

目からウロコの教育史 第6回・カント「人間は教育によってはじめて人間になることができる」

教育史に出てくる「名言」って一体何を意味しているの?
単に暗記するのではなく、マンガ&テキストでその「根っこ」を理解する「目からウロコ」のコーナーです。

第三者がまとめた講義録の言葉

 カントは,プロイセン〈現・ドイツ〉にあるケーニヒスベルク大学の哲学教授時代に教育学の講義を受け持ちました。確認できるだけで4回,講義をしています。当時のケーニヒスベルク大学では,教育学の授業は哲学部の正教授が持ち回りで担当していました。
 その講義を弟子のリンクがまとめたものがカントの『教育学講義』なのですが,いつの講義の内容なのかは分かっていません。リンクはカントから講義の覚え書きを受け取っているのですが,その覚え書きがどの程度忠実に本に反映されているかも分かっていません。
 つまり,『教育学講義』に記されている「人間は教育によってはじめて人間になることができる」という有名な言葉も,カントが本当に言ったのか,厳密にいえば分かりません。その意味では,10月号で取り上げたソクラテスの「汝自身を知れ」という名言と似ています。

人間を人間たらしめる教育とは

 『教育学講義』は,「人間は教育されなければならない唯一の被造物である。そして,教育とは『養育(養護・保育)』と『訓練(訓育)』および『人間形成をともなった知育』ということを意味している。」という一節から始まります。この冒頭部分は序論として書かれているもので,『教育学講義』の本論部分では,「自然的教育」と「実践的教育」に分類されています。厳密に分けづらい部分もあるのですが,「養育(養護・保育)」は「自然的教育」,「訓練(訓育)」および「人間形成をともなった知育」は「実践的教育」に分けられます。
 「自然的教育」というものは,人間に限らず,動物にもみられることだとカントは言います。一方の「実践的教育」は,人間固有のものです。タイトルにあるように,「人間は教育によってはじめて人間になることができる。」というのですから,人間を人間たらしめるのはこの「実践的教育」ということになります。
 「実践的教育」には,3つの要素が含まれています。第一に「熟達性(熟達した技能)」,第二に「世間的怜悧(れいり)」,最後に「道徳性」です。「熟達性」は,学校教育的にあるいは知識伝達式に教えられるものと述べられているので,いわゆる知識や技能と考えてよいでしょう。「怜悧」は「賢いこと」という意味の言葉ですが,カントは「熟達した技能を(他の)人に売り
込む技法」であり,「自己自身の意図のために(他の)人たちをどのように利用できるのかという技法」だと言います。要は,熟達した技能をどう使いこなすかということになります。

究極の「道徳性」を目指したカント

 一方,「道徳性」とは,品性に関わることで,いかにして自分自身を律するかという問題です。カントは,この道徳性が最も重要だと考えていました。
 では,道徳とはどのように規定されるものなのでしょうか。カントによれば,道徳律(=道徳法則)は「定言命法」でなければなりません。「定言命法」とは,いかなる仮定や前提もなく(つまりは無条件に)「~せよ」という形式をとる命令です。一方,「もし~ならば,~せよ」という命令は,「仮言命法」と呼ばれます。
 たとえば,「他人に優しくされたいなら,自分が他人に優しくせよ」という考え方があります。他人に優しくすることは道徳的行為かもしれませんが,自分が優しくされたいからそうしているともいえます。「仮言命法」にもとづく行為は,つまるところ自分の利益を優先する行為であり,真の道徳的行為とはなり得ないというのがカントの考え方です。「仮言命法」による道徳律のもとでは,道徳的であることは目的ではなく,手段に陥ってしまうのです。
 カントが目指すのは,「定言命法」により自己を律する人間です。道徳的であること,それ自体を目的とできる人間です。
 しかし,現実問題として,それはかなり難しいと言わざるを得ません。道徳性を育てるにあたって,カントは問答を重視するのですが,「定言命法」により自己を律する厳格な人との問答は,およそ対話的とはいえないものになるでしょう。
 では,どのように道徳性を身に付けさせるかということになりますが,それは今なお難しい問題として残されています。

著・監修 吉野 剛弘(埼玉学園大学 准教授)

慶應義塾大学大学院社会学研究科教育学選考後期博士課程修了。日本教育学会、教育史学会所属。