2019.04.25

目からウロコの教育史 第9回・デューイ「このたびは子どもが太陽となり,その周囲を教育のさまざまな装置が回転することになる。 子どもが中心となり,その周りに教育についての装置が組織されることになるのである」

教育史に出てくる「名言」って一体何を意味しているの?
単に暗記するのではなく、マンガ&テキストでその「根っこ」を理解する「目からウロコ」のコーナーです。

教科中心から児童中心へ

 タイトルの言葉は,デューイの著書『学校と社会』の中にあるものです。デューイが校長を務めたシカゴ大学実験学校での成果を報告する講演をまとめたのが,この『学校と社会』という本です。
タイトルの言葉の少し前には,こう書かれています。
「いまやわれわれの教育に到来しつつある変革は,重力の中心の移動である。それはコペルニクスによって天体の中心が地球から太陽に移されたときと同様の変革であり革命である。」
 旧教育では教師や教科書など「子ども自身の直接の本能と活動以外」に重力の中心があり,「子どもが太陽」になる新しい教育では子どもに重力の中心を置くべきであると,デューイは主張しま
す。しかも,このことは教育におけるコペルニクス的転回だというのです。
 デューイの実験学校では,実社会や実生活と切り離された「死んだ知識」ではなく,社会的に意味のある活動(オキュペーション)を中心に据えた教育を追求しました。さまざまな知識について実際に試してみたり,ものづくりをしてみたりするのですが,そのような活動を通して必要な知識や技能を身に付けさせるという手法を取りました。これを体系化すると,問題解決学習になっていきます。

進歩主義教育とは

 デューイは,教育の過程は「経験の再構成(改造)(reconstruction of experience)」であると考えました。人は新たな経験をすることでそれまでの自己の中にあった知の体系を再構成し,再構成を繰り返すことで成長するという考え方です。いくら知識を教え込んだとしても,それを学習者自身が体得し,自らがもともと持っている知の体系に組み込めないのだとしたら,学習者にとっては意味がありません。そうであればこそ,子どもの興味・関心や自発性に寄り添いつつ,社会的に意味のある活動を行うことが求められるということにもなります。
 デューイの教育思想は,進歩主義教育思想のひとつとして理解されています。進歩主義教育では,子どもの自発性が重んじられます。教育は生活の過程そのものであり,将来の準備ではないので,要らない知識を無理やり詰め込む必要はないということになります。それゆえに,子どもの興味・関心に従って,教育内容は構成されるべきということになります。
 実を言うと,デューイは教育が児童中心主義に偏向することには批判的で,教科についても一定の意義を認めています。しかし,子どもを教育の中心にすると高らかに謳ったこともあり,子どもの自発性を重んじるさまざまな実践の論拠として,デューイを引き合いに出す傾向があることも事実です。

進歩主義教育への批判

 一方で,教科の内容こそが重要であるという考え方もあります。このような考え方を本質主義と呼びます。教科の内容というのは,人類の学問を進歩させる中で得た成果のうち,重要で意味のあるものを集積したもの,つまり文化の本質だという考え方です。この考えに従えば,教科を学ぶことは人類の文化・学問の進歩を追体験することであり,個々の子どもの日常にとらわれるものではないということになります。
 進歩主義の教育は,20 世紀前半のアメリカを席巻しました。一方で,進歩主義の考えに基づく実践は,「這い回る経験主義」と批判されることがあります。子どもの興味・関心ばかりを重んじたのでは,日常生活から飛躍したことに関心を持つことはなく,それゆえに高度なものに関心が向かないという論理です。
 進歩主義教育への批判は,1930 年代頃から起こりはじめてはいましたが,それでも進歩主義教育は一定の影響力を持っていました。しかし,1957 年から起こったスプートニク・ショックによって,子どもの興味・関心に重きを置く教育から離れる動きが進んでいきます。そこでは,進歩主義と本質主義との対立を別の形で解決しようという考え方が生み出されるのですが,それは次号で触れることにします。

著・監修 吉野 剛弘(埼玉学園大学 准教授)

慶應義塾大学大学院社会学研究科教育学選考後期博士課程修了。日本教育学会、教育史学会所属。