2019.08.02

目からウロコの教育史 第12回・「随意課題」

教育史に出てくる「名言」って一体何を意味しているの?
単に暗記するのではなく、マンガ&テキストでその「根っこ」を理解する「目からウロコ」のコーナーです。

「自由に書く」作文は「新しい」作文

 「随意選題」とは,綴り方,現代風に言えば作文教育に対する考え方の一つです。芦田恵之助がこの言葉を用いて提唱した作文教育は,新しい作文教育として多くの支持を集めました。
 「思ったことを,好きなように書く」という,その作文教育が支持されたのは,それまでの作文教
育の常識を覆すものだったからです。決められた課題に対して,整った文章を書けるように指導することがよいと考えられていた従来の作文教育のあり方を,大きく変える考え方だったのです。
 しかし,学校で提供する教育内容は,作文だけではありません。そこで,まずは明治期以降の教育
方法の変遷を見ていくことにしましょう。

教育方法史は輸入の歴史!?

 明治に入って日本でも近代学校制度が導入されます。しかし,寺子屋(手習塾)のような個別指導ではなく,集団での一斉指導を取る近代学校制度において,その教育を具体的にどう進めればよいかについて,日本には十分な蓄積がありません。そこで,教育制度がそうであったように,教育方法においても欧米のものを取り入れていくことになります。
 明治の初めの頃の学校では,「掛図」を使った授業がしばしば展開されました。教科書が整っていないので,教師が掛図を指し示しながら,新しい知識を教えていくしかなかったのです。
 そんな学校にも少しずつ変化が訪れます。アメリカの師範学校で教授法を学んだ高嶺秀夫と
伊澤修二は,そこで学んできたペスタロッチ主義を「開発教授」として普及させます。ペスタロッチの「メトーデ」に基づく直観教授の方法が導入されたのですが,実際には問答という側面が重視され,ペスタロッチ主義というよりはそれに触発された別の方法というべきものが広まっていきました。
 明治20 年代に入ると,帝国大学の教育学の教授として招かれたハウスクネヒトとその教え子たちによって,ヘルバルト主義が広まります。ヘルバルト主義は段階教授法が特徴ですが,日本で広まったのはラインの五段階教授法でした。しかし,教師の行動規範ともいえるラインの五段階教授法は,それを忠実に適用しようとすると,子どもが後背に追いやられる恐れがあります。結果として,教育方法の硬直化が進むことになってしまいました。
 そのような中で,東京高等師範学校附属小学校に勤めていた樋口勘次郎は1899(明治32)年に
『統合主義新教授法』を著し,子どもの自発性を重んじる教育のあり方を提唱します。樋口自身は,ヨーロッパ留学後にこの主張を変節させます。しかし,当時は欧米で新教育運動が起こった時期に重なります。新しい児童中心主義の思想を取り入れつつ,子どもに正対する教育を模索する動きが起こります。大正自由教育です。

思わぬことから生まれた 「随意選題」

 芦田恵之助は大正自由教育の主要人物の一人として取り上げられます。しかし,新しい作文教
育の胎動は明治期にまで遡ります。
 芦田は樋口勘次郎の1歳下ですが,樋口が上述の本を出版した時期に,ともに東京高等師範学校附属小学校に勤務していました。芦田は,子どもたちが喜んで作文を書かないことに不満を抱いていました。さまざまな策を施しても状況が改善しないので,あるときに自分の好きなことを書くようにと半ば子どもたちを突き放しました。ところが,結果として思いのほか成果が上がりました。このような実践を受けて,芦田は新しい作文教育のあり方を提唱するようになります。それが「随意選題」という考え方です。
 その後のさらなる実践や研究を経て,1914(大正2)年に『綴り方教授』を執筆します。この著書に前後して,学校現場向けの著作も複数刊行したため,この考え方は学校現場にも浸透していきました。さらには,自由に書かせるということから,生活を文章化するというように主張を展開していきます。この流れは,昭和戦前期の生活綴方運動など,後の作文教育にも影響を与えました。

著・監修 吉野 剛弘(埼玉学園大学 准教授)

慶應義塾大学大学院社会学研究科教育学選考後期博士課程修了。日本教育学会、教育史学会所属。