2020.03.05

バスケ未経験の若手教師が顧問5年目で全国優勝するまで。第5話

今から約30年前の平成元年。茨城県の中学校で「廃部寸前」といわれた弱小男子バスケ部を全国初優勝に導いた若手教師がいた。その名は稲葉一行。バスケはルールさえ知らなかったド素人。彼はその後も輝かしい成績を残すとともに,現在の日本バスケ界を支える人材も多数輩出している。知る人ぞ知るレジェンドだが,彼はどんなに請われてもバスケについては語ってこなかった。なぜなら「私の仕事はバスケではなく教師だから」。そんな稲葉が,若い教師のためになるならと,伝説の指導について,令和の時代に初めて口を開く!

第5話 超中学級エース現る

 ここで練習しているのか。
 昭和62 年4月。筑波西中学校に入学したばかりの少年は,同級生とグラウンドの端に立ち,男子バスケ部の練習を見学していた。吹きさらしのゴール。万年「予選敗退」の弱小チーム。週の半分しか体育館を使えず,練習環境もチームの実績も,決して充実しているとは言えない。
 だが,少年の目には,練習に打ち込む先輩たちの姿が魅力的に見えた。その中心にいながら指示やアドバイスを出す稲葉のことを,メンバー全員が信頼している空気がすぐに伝わってきたからだ。
 またバスケをやるか,それとも……。
 横に並ぶ同級生よりも頭一つ分ほど大きな体を少し傾けながら,少年はこれから自分が進むべき道について考えていた。

迷える天才との出会い

 平岡というすごい選手がいるらしい。
 その少年の名は,彼が中学校に入学する前から,既に地元のバスケ関係者の間では有名だった。小学6年生の時点で身長は170㎝弱。5年生のときにはセンターとして6年生メンバーに交ざり公式大会に出場し,チームの郡大会優勝に貢献している。恵まれた体格と天性の運動神経の良さは,バスケのみならず,野球やバレーなど多方面の指導者から注目を集める“逸材”だった。
 だが,平岡はバスケットをやることに対して,最初から特別な思い入れがあったわけではない。平岡が本格的にバスケを始めたのは小学4年生の頃。それも始めたきっかけは「家の引っ越し」だった。
 茨城県つくば市で生まれた平岡は,生まれてすぐに父親の仕事の都合で東京に転居する。そこで平岡はリトルリーグに入り,熱心に野球の練習に打ち込んでいた。ところが小学4年生になると,再び茨城に引っ越し,つくば市内の小学校に通い始める。東京と違ったのは,その小学校に野球部がなかったことだ。当時から体の大きかった平岡は,担任の強い勧めもあり,成り行きでミニバスケット部に入ることになる。
 ミニバスの練習は厳しかったが,楽しくもあった。だが,本心を言えば,平岡は野球を続けたいと思っていた。ミニバスの顧問は自分に目を掛けてくれるが,それは単に自分が同級生よりも体が大きく,試合で使いやすいからではないのか。体格差のアドバンテージから点を取ることも多かったが,自分ではそれほど活躍しているという実感はない。何より自分が大好きな野球よりも,バスケのほうが向いているとは,どうしても思えなかったのだ。
 そんな折り,平岡は稲葉と出会った。
 二人が初めて会ったのは,平岡がまだ小学生の頃。場所は,平岡の自宅だった。平岡の父は学校の近くで自宅に併設した飲食店を経営しており,そこへ稲葉を含む教員らが度々食事にきていたのだ。
 とはいえ,当時は父親に呼ばれて,少し挨拶に顔を出す程度。稲葉がバスケの指導者であることは知っていたが,長く会話することはなかった。正直に言うと,血気盛んな30 代の稲葉を見て「ちょっと怖そうな先生だな……」とさえ感じていたのだ。
 だがその後,ミニバスの練習試合で筑波西中の体育館を度々利用した際に,稲葉から何度か声を掛けてもらったことで,平岡は次第に筑波西中男子バスケ部の存在を意識するようになっていく。筑波西中の試合を見た父親からは,まだ実績こそないが,稲葉の指導で着実に実力を伸ばしているということも聞いていた。
 自分が好きな野球に戻るか,それともバスケを続けるのか……。
 やがて筑波西中に進学した平岡は,自分が進むべき方向を考えあぐねていた。そんな平岡に,稲葉はこう声をかけた。
 「少しでもやりたい気持ちがあるなら,バスケ部の練習に顔を出してみないか?」

選手ではなく,人間を育てたい

 平岡の噂は,稲葉も早くから聞いていた。
 素人なのに,断トツの身体能力で他の選手を圧倒している。その噂は,実際に練習や試合での平岡の動きを見て,間違いではないと感じた。
 技術的にはまだ粗削りな部分も多い。だが,恵まれた体格と足腰のバネ,そして先輩に交じってプレイしても物怖じしないメンタルの強さは,中学生になったばかりとは思えないほど高いレベルに達していた。
 ぜひともうちの部にきてほしい!
 正直,心の中ではそう思っていた。
 だが,稲葉はあえて平岡を強くバスケ部には誘わなかった。能力や才能があっても,好きでないならやる必要はない。本人の意思が定まらないうちから半ば強引に勧誘するのは,自分の指導者としての流儀に反すると思ったのだ。
 おれはどんな「指導者」になりたいのか。
 半年前の筑波郡新人戦準決勝。前半に19点ものリードを奪っておきながら,後半にまさかの逆転負けを喫したあの試合の後から,稲葉は監督として,自分が子どもたちにしてあげられることを考え続けていた。
 あの試合で,稲葉が強烈に思い知らされたことがある。それはどこまでいっても,自分は所詮「バスケの素人」に過ぎないということだ。
 試合後,見学に来ていた平岡の父親から「19 点差をひっくり返されたのは,監督の力不足だな」とぽつりと言われた。ショックだったが,返す言葉もなかった。
 参考書やビデオを観て,自分なりに研究はしたつもりだ。その結果,チームが強くなっている手応えもあった。だが,最後に成す術もなくやられてしまったのは,監督として,自分が立てた策に溺れてしまったことに原因がある。策を弄し,それを実行する人間のほうに目を向けられていなかったのだ。
 この敗北を機に,稲葉は指導者として自分が進むべき方向性を強く意識するようになった。バスケ選手としての経験がない自分が,なまじ知識を得たところで,付け焼き刃の戦術にしかならない。それよりも今,目の前にいる子どもたちは何ができるのか,どんな良い部分を持っているのか,どうすればそれを最大限に引き出してあげられるのか。一人ひとりの個性を深く理解して伸ばしてあげることのほうが,指導者として遥かに大切ではないかと思い直したのだ。
 バスケは素人でも,プロの教師として,「選手」ではなく「人間」を育てたい。
 稲葉のその思いは,平岡に対しても変わりなかった。

バスケだけやっていてもダメだ

 5月。平岡の姿は,野球部ではなくバスケ部にあった。
 中学でもバスケを続けてみよう。
 平岡がそう思った一番の決め手は,先輩の試合を目の当たりにしたことだ。当時,筑波西中のバスケ部には,小学生のときに一緒にミニバスをした先輩たちが数名在籍していた。平岡が驚いたのは,そのレベルの高さだ。小学生の頃に比べ,試合展開のスピードが圧倒的に速い。まるでピンボールの玉が上から下へ流れ落ちるように素早くパスをつなぎ,ゴールを重ねる先輩たちの姿を見て,「自分もこんなプレイをしてみたい!」と平岡は身震いした。
 実際にこの頃,バスケ部のメンバーらは,これまでの攻撃的守備をさらに進化させ,速攻の強化に力を注いでいた。
 バスケには「30秒ルール(当時。現在は24秒)」と呼ばれるショットクロック(時間制限)がある。簡単に言うと,自チームがボールを持ってから30 秒以内にシュートをしなければならないという決まりなのだが,稲葉はこれをさらに短くして10 秒以内にシュートを放つ「10秒オフェンス」の練習を繰り返した。
 サッカーなどに比べ,狭いコートを動き回るバスケは,パズルのように緻密なボール回しやポジションニングが要求される。そのため試合に勝つには,さまざまな試合展開を想定し,それに応じた動きのパターン(セットプレー)を身に付けることが重要だと考えられてきた。
 だが稲葉は,「それでは間に合わない」と感じていた。経験豊富で,選手層が厚い強豪校ならまだしも,監督も選手も素人に近いうちのチームでそれをやろうとすれば,形になるまで何年かかるかわからない。
 そこで稲葉は,複雑なセットプレーを排し,いかに手数を少なく,最短の距離と時間で相手ゴールまで近づけるかということだけを追求していった。パスの回数は極力少なくし,その分全員がスペースに走る。守りから攻めへのトランジション(切り替え)を1秒でも短縮する。試合のペースが上がれば,相手にミスが生まれ,そこに勝機が訪れる。強豪校のマネではなく,バスケの素人ならではの戦術で戦おうと考えたのだ。
 こうして稲葉は,今まで以上に基礎体力作り,特に下半身の強化を目的とした練習に力を注いでいった。週の半分以上は,グラウンドでの走り込みやタイヤ引き。速く動いてもミスをしないように,ドリブルやシュートも基礎練習を徹底的に繰り返す。こうした地道な訓練は,バスケ経験の有無に関わらず,平岡にも同じように課した。
 また,稲葉は試合でも平岡を特別扱いすることはなかった。ミニバスをしていた頃,平岡は必ずセンターを務めていたが,稲葉はあえてポジションを固定せず,ガードやフォワードなどさまざまな役割を任せた。
 一方,「自分はもっとできる」という思いも,当然平岡にはあった。グラウンドの走り込みも,正直楽しいとは言えない。
 ただ,それでもバスケを辞めようと思わなかったのは,稲葉が自分を戦力としてではなく,一人の人間として向き合ってくれていると感じたからだ。
 稲葉はバスケ部の顧問にも関わらず,常々「バスケだけやっていてもだめだ」と平岡に話した。今後,自分がどんな人生を歩んでいきたいのか。そのために今やるべきことはバスケなのか,勉強なのか,それとも別のことなのかをよく考えろと言う。
 稲葉先生は自分をしっかり見てくれている。そう思うと,不思議と反発心は薄れ,前向きな気持ちで練習に励むことができた。
 こうした訓練の成果は,半年後に「新人大会優勝」という形で花開く。そしてこれ以降,筑波西中は破竹の勢いで連勝を重ね,強豪校への道を駆け上がっていくのだ。

Look back ~振り返って見えること~

 30代半ばの頃,バスケ部の生徒に対する指導の仕方について悩んだことがあります。
 実を言うと,私は勝負事があまり好きではありません。徹底的に勝ちにこだわるのであれば,素質のある選手を引き抜き,より良い環境で練習させることが最善でしょう。ただその陰には,多くの「その他」の選手がいて,素質のある選手のために犠牲を強いることになる。私は,そういう考え方が好きではないのです(こういうところが“素人”の部分なのですが……)。
 ただ,部活動とはいえ,スポーツは勝負の世界。試合をすれば必ず勝敗が決まります。それに「楽しければ負けたって構わない」と監督が考えていたら,試合のため真剣に練習に取り組んでいる生徒たちの気持ちをないがしろにすることにもなります。
 指導者として,このバランスをどう取ればいいのか……。悩んだ末,私が思い至ったのは,生徒に対し「平等」ではなく「公平」であろうということでした。
 試合をすれば,必ずレギュラーメンバーと控えのメンバーに分かれてしまう。全員を平等に試合に出すことはできません。ただレギュラーでも控えでも,それぞれが担う役割や責任の重さは全く違わない。そこに勝敗や優劣はないということを伝えるために,メンバー全員と同じように話す時間を設けることを常に意識していました。
 平岡のポジションをあえて固定しなかったのも,高校や大学でセンターから外されても,違う場所で活躍できるようになってほしいとの思いからです。
 より長く,全体を見渡す。物事を俯瞰で見る余裕を常に持ちたいと,今も思います。