2020.03.05

バスケ未経験の若手教師が顧問5年目で全国優勝するまで。第7話

今から約30年前の平成元年。茨城県の中学校で「廃部寸前」といわれた弱小男子バスケ部を全国初優勝に導いた若手教師がいた。その名は稲葉一行。バスケはルールさえ知らなかったド素人。彼はその後も輝かしい成績を残すとともに,現在の日本バスケ界を支える人材も多数輩出している。知る人ぞ知るレジェンドだが,彼はどんなに請われてもバスケについては語ってこなかった。なぜなら「私の仕事はバスケではなく教師だから」。そんな稲葉が,若い教師のためになるならと,伝説の指導について,令和の時代に初めて口を開く!

第7話 最強のライバルとの 出会い

 その日は,どしゃぶりの雨だった。
 1989(平成元)年6月,稲葉は筑波西中のメンバーとともに,静岡県にある静岡市立大里中学校を訪れていた。目的は遠征試合。
だがその相手は,大里中ではなかった。
 「きたぞ,岡崎城北だ……!」
 体育館の入り口から,大柄な男たちがぞろぞろと中に入ってくる。メンバーの多くは170㎝台後半,中には身長180㎝を超える選手も数名いた。とても全員が筑波西中の子供たちと同じ「中学生」とは思えない。
 これが全国トップクラスのチームか。
 稲葉は,岡崎城北中の選手たちが放つ静かな迫力に,思わず息を飲んだ。この一年間で筑波西中が対戦した相手は,練習試合を含め100 校近く。実戦経験の数なら決して引けをとらないはずだ。だが,体育館を悠然と歩く岡崎城北中の選手たちからは,そんなことなど一顧だにしない強い自信が漲っているように感じられた。
 今の実力で,どこまで届くのか。
 これから行われる岡崎城北中との対戦を前に,稲葉の心は自信と不安の間で揺れ動いていた。

無敗記録の始まり

 昭和が終わり,新しく「平成」の時代が幕を開けた1989年。
 その年の筑波西中は,まさに無敵だった。
 2年生の平岡を中心とした,現体制のチームを築いたのは1年前の1988年9月。3年生が引退し,2年生のメンバーがレギュラーに昇格したばかりだったが,翌月に行われた,つくば市新人大会でいきなり優勝を飾る。決勝の相手は,4年前,稲葉がバスケ部の顧問になって初めての練習試合で「72-2」の記録的大敗を喫した,あの豊里中だ。新人大会決勝戦のスコアは「26-64」。なんとトリプルスコアに迫る大差をつけて,筑波西中が圧勝したのである。
 これが偶然の勝利でないことは,その後の試合結果を見ても明らかだ。
 翌11 月に行われた茨城県新人大会は準優勝。県南選手権は優勝。さらに年が明け,1989年2月に行われた毎日・茨城杯も優勝を飾る。以後,6月になるまで50戦を超える練習試合を行ったが,平成になってからは「負けなし」の状態が続いていた。ここにきて筑波西中は,他県の学校にまで名が知れるほどの強豪校になっていたのである。
 勝利を重ねるにつれ,自然と日々の練習も熱を帯びていった。
 平日は毎朝1時間,学校の外周を走り込み。放課後は,筑波西中から2㎞ほど離れた場所にある菅間小学校の体育館まで自転車で行って練習。雨の日は廊下の雑巾がけや階段トレーニングなど,限られた場所と時間の中で効率的に足腰を強化していった。
 さらに,筑波西中の武器である「攻撃的なディフェンス」を強化するために,「ゾーンプレス」の特訓にも力を注いだ。これはオールコート(コート全面)で守備を行うこと,さらに相手1人に対し2人もしくは3人と広範囲からのプレッシャーをかけ,ボールカットやパスミスを誘う戦術である。
 ゾーンプレスは,機能すればトップクラスの選手の動きも封殺できるほど非常に強力な戦術だが(ちなみに日本バスケットボール協会は「個人の能力の育成を妨げる」という観点から,2016年度より15歳以下の試合におけるゾーンプレスの使用を禁止している),十分に威力を発揮させるためには尋常ならざる体力が要求される。
 単純な話,相手1人に対して2人でプレッシャーをかける場合,守備側からすれば1人で2人の選手をマークするのと同じことになるため,マンツーマンに比べ倍の量を動かなければならないのだ。
 稲葉はこのゾーンプレスを,なんと試合の終盤に発動することが多かった。自分たちがいちばん辛いときは,相手もいちばん辛いとき。ならば試合の終盤こそゾーンプレスが最も効きやすいというわけだ。
 だが口で言うのは容易いが,体がもたなければ意味がない。そこで稲葉は,体力的にいちばんきつい練習の最後に,毎回ゾーンプレスの特訓をした。可能な限り試合のときと同じ条件で練習をしてこそ,辛いときに「あと一歩前へ」出る体力と精神力の強さが養われると考えたからだ。

強いチームと勝てるチームは,別物

 ゾーンプレスと同じく,稲葉が練習の最後に行ったのが「フリースロー」だ。
 シュートの成功率をただ上げるだけではない。稲葉が重視したのは「疲れた状態でも確実にフリースローを決められる正確さ」だった。その狙いの背景には,稲葉流の“盤外戦術”ともいえる緻密な策略がある。
 ポイントとなったのは,ファウルの数だ。稲葉はスコアラーに,得点やシュートの本数だけでなく,自分と相手チームのファウルの数を記録させ,その結果を受けて戦略を変更した。例えば,自軍のセンターをマンツーマンでマークしている相手チームの選手が4回ファウルを取られたとする。その場合,相手選手はあと1回ファウルを取られると退場になってしまう。
 そこで稲葉はすかさず,「センターにボールを集めろ」と指示を出す。センターをマークする相手選手は,ファウルを取られたくないのでプレーが委縮して穴ができる。さらにファウルを取れば退場にもできるというわけだ。
 そしてこの戦略は,ゾーンプレスとセットにすることで絶大な威力を発揮した。試合の後半にゾーンプレスをかけることで,相手は疲れといらだちからファウルを連発するようになる。そこで,ペナルティとして“ただ”でもらえるフリースローを確実に決める。フリースローで得られる点数は1点か2点。しかし積み重なれば,ボクシングのボディーブローのように相手の体力と気迫を奪うことができる。
 そのために稲葉は,練習の最後にいちばん体が疲れた状態で,フリースローの練習を行ったのだ。
 恵まれた体格やずば抜けた才能があれば,こんな練習は必要ないだろう。しかし筑波西中の選手たちは,平岡など一部の選手を除けば,地元の小学校から上がってきた平均的な能力の子たちばかり。それに体格や才能は,望んでも手に入るものではない。
 だから確実に勝つためには,「自分たちがいかに強くなるか」ではなく,「いかに相手の長所を封じるか」を考える。
 これが年間100戦の試合経験を通じて稲葉が得た,勝利の鉄則だった。

一瞬の火花

 1989年6月。平岡たち3年生メンバーの約2年に及ぶ地道な練習は,いよいよ大輪の花を咲かそうとしていた。全国大会の地区予選が始まったのだ。
 筑波西中は,初戦から爆発的な強さを見せつける。つくば市総体1回戦のスコアは,なんと「23 -117」の圧勝。2回戦以降も「28-76」「22-68」「38-73」と大差をつけ,危なげなく市大会を優勝し県南総体に駒を進めた。
 快進撃を続けるチーム。しかしその一方で,稲葉の心の中では,言い知れぬ不安が頭をもたげるようになっていた。「あまりにも勝ちすぎている」と思ったのだ。
 稲葉は,選手たちが「自分たちは強い」と本来の実力以上に過信してしまうことを危惧していた。もちろん今年の結果だけみれば,県内トップ3に入るほどの実績は上げているだろう。だがそれはあくまで挑戦者として,あらゆる手段を尽くして戦うからこそ結果がついてくるのであって,力を抜いて勝てる試合など一つもないのだ。
 しかしそんな稲葉の心配をよそに,選手たちのプレーにしばしば驕りが見られることもあった。特にエースの平岡に関しては,凡庸な相手には明らかに手を抜いたプレーをする場面が目立つようになっていた。
 県大会に行く前に,もう一度「負けること」を思い出させないとだめだ。
 そんなとき稲葉が知ったのが,愛知県にある「岡崎市立城北中学校」の名前だった。
 「あの葛飾が,岡崎城北にダブルスコアで負けたらしい」
 その話を聞いたとき,稲葉は思わず耳を疑った。千葉の葛飾中といえば,前年の全国大会でベスト8に入った超強豪校だ。じつは筑波西中は葛飾中と練習試合をしており,「79-52」と大敗していた。
 あの葛飾に,2倍以上の点差をつけて勝つなんて……。
 驚きと同時に強い興味を抱いた稲葉は,すぐに岡崎城北中の監督に電話をかけ「練習試合をさせてもらえないか」と頼んだ。自分たちがもう一度“挑戦者”に戻れる相手だと感じたのだ。
 事実,岡崎城北はその年の全国制覇に向け,着々と準備を進めていた。一軍メンバー5人のうち4人は,小学校のミニバスで全国優勝を経験したエリート選手。愛知県内では2番手とやってもダブルスコアで勝ってしまうため,練習試合はいつも高校生の強豪チームとやっていた。さらに,筑波西中が関東圏を中心に遠征試合を行っていたのに対し,岡崎城北中は九州以外の全ての地域の強豪校と遠征試合を行い,その全てに「完勝」していたのである。
 こうして静岡県の大里中で相まみえた両校の対戦は,実力差が如実に表れる結果となった。
 スコアは「77-59」。筑波西中の敗北だ。
 「気づいたときにはもう後ろを走ってた」
 試合後,岡崎城北中のマークについた選手たちは,皆呆気にとられた様子だった。これまで練習を重ねてきたゾーンプレスが通用しないだけでなく,逆にゾーンプレスを仕掛けられマンツーマンのマークさえできない。相手の動きを止めるには,こちらがファウルするしかないほど,力の差が開いていると痛感したのだ。
 一方,岡崎城北中にとっても単なる“消化試合”にとどまらない収穫があった。
 「平岡だ。あいつは必ず脅威になる。徹底的にマークしろ――」
 全国大会本戦まで,あと2か月。
 筑波に戻った選手たちは,岡崎城北中との試合を収めたビデオを何度も見直した。
 トップとの差を縮めるに,自分たちは今何をすればよいのか。
 テレビ画面を食い入るように見る選手たちを見つめ,すっかり挑戦者の顔に戻っていると,稲葉は感じた。

Look back ~振り返って見えること~

 岡崎城北中との試合の後,子供たちはそれまで以上に真剣に練習に臨むようになりました。初めて全国トップレベルの相手と対戦し,自分たちの実力がまだまだ不足していることを「自覚」したからでしょう。改めて全国大会の前に「負け」を経験しておいてよかったと思いました。
 こうした考え方は,普段の学校生活で子供を「叱る」ときにも有効です。叱るのは,悪いことをした子供に「罰」を与えるためではありません。自分は悪いことをしたんだという「自覚」を促すために叱るのです。
 私は生徒指導として,子供同士の喧嘩を仲裁することも多かったのですが,必ず手を出した生徒の「言い分」に耳を貸すことを心掛けていました。相手を殴るのは問答無用で悪いこと。しかし殴るのには,それだけの理由が必ずあります。それを生徒自身が自覚し,コントロールできるようにならなければ,叱る意味がないのです。
 一方で,大きな失敗をした子供を強く責めてはいけません。
 筑波西中でバスケの指導をしていたとき,選手が大事な場面でファウルを取られ,逆転負けを喫するということがありました。そのとき生徒は「これは大目玉を食らうぞ……」と戦々恐々としていたそうですが,私は決して怒りませんでした。なぜなら失敗した本人が,いちばん自分の責任を痛感していると思ったからです。
 事故でも事件でも,事態が重大化するのは,決まって本人に自覚がないときです。そんなときこそ,大人が声を大にして注意しなければならないと感じています。

稲葉一行

1985年筑波西中学校に社会科教諭として着任,バスケ部を指導。その後,つくば市教育委員会事務局や県内小中学校勤務を経て,2015年つくば市の学校教育審議監として退職。
現在,一般財団法人21世紀教育会常務理事,茨城県生涯学習審議委員・社会教育委員。